“傾聴”とは

関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”ですが、
いよいよ今度の日曜に、迫ってまいりました!
井川拓の書いた昨日のブログを読んでいただければ、
“shellsong”が、そして映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』が、
ただ小川国夫の小説を“使った”だけの、悪戯な試みではないということを、
少しでも感じていただけると思います。
と、これにつなげて、何か“でかいこと”でも書いて大宣伝したいのですが、
どうもそういうのは苦手というか…。いや、ただ単に、ここでは違うことを書きたいのです。
yunamicho.jpg
雑誌『新潮』2004年6月号に発表されたエッセイ「耳を澄ます」
(2006年12月に幻戯書房から発行された『夕波帖』に収録)には、
小川国夫流の“創作感覚”のようなものが書かれています。
タイトルから想像できると思いますが、ここで書かれているのは、
“聴覚”について、“音”について、です。
が、聴覚を含めた“五感”とは「便宜的な分けかた」であって、
「たがいに色層がにじみ合った虹のようなもの」とも書かれています。
ここで小川さんは(作品名こそ明記していませんが)
自身の短篇小説「ハシッシ・ギャング」の舞台裏の楽屋を披露しています。
(もちろん映画『デルタ』の原作のひとつとなった、あの小説です)
これは実験小説のたぐいです。勿論理想の小説ではありません。
理想からかけ離れた出来栄えです。しかし、けなげにも、はるかに遠い理想を、
私は追いかけているつもりなのです。なぜなら、私は、この一篇に
傾聴とは何かを集約したいと願って書いたのですから…。
テレビや政治家がしきりに助長している饒舌の時代に、
文句をつけたいわけではありません。
私の願いはただ一つ、傾聴の世界を書きたいのです。

この文章を読めば、小川さんが小説を書くことを通してずっと考えていたことは、
社会問題とか、まして風景描写とか音の表現といった
単純なことではまったくなかったことがよくわかると思います。
“傾聴”とは、何でしょうか?
いま、たとえば福祉、医療、教育など(あるいはビジネス?)の世界で、
よく言われる言葉と聞いています。
ただ、さりげなく「耳を澄ます」と書いた小川国夫さんに、思いを馳せています。
下窪俊哉